このところ西へ東へと出張の連続ですが、昨夜姫路から帰ってきました。
播州での仕事の前日に早めに移動して、かねてより念願だった「天空の白鷺」に行ってきました。
「天空の白鷺」とは、天守閣を覆う素屋根の内部に設けられた見学施設で、姫路城大天守の美しさを間近に見るという工事期間限定の施設です。
設置されたエレベーターで天守閣の真横まで上がり、工事の様子や職人による匠の技を眼前に見ることができます。

ご存知の通り、姫路城はその美しさから白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)とも呼ばれます。
傷みや汚れの激しくなった姫路城の耐震化や、屋根瓦の葺き直しなどを中心に、今回は50年に一度の5年掛りの大改修工事です。
すでに屋根瓦の葺き直しは終わったようで、最近は漆喰壁の塗り直しなどの工事を進めているようです。

前回の「昭和の大修理」は、私が生まれる前年に着工され、8年掛りで解体してから建て直すという大掛かりなもので、完工の時には私は既に小学生になっていました。
その時代の天守閣を覆う素屋根は今とは違い、木造でしたからいかに凄い工事だったことか。
今回は鉄骨を組み上げて、天守の外側をすっぽりと包んでいますが、今回の「天空の白鷺」は人生で二度とこないチャンス到来なのです。

完成間近の姫路城大天守の外観を、見学窓から間近で見ることができるのですから、わざわざ足を運ぶ価値ありです。
お奨めは、ネットで予約を入れておいてから行くことです。
私もそうしましたが、入場待ち・エレベーター待ちの行列をスルーして入ることができますから、全くストレス・フリーで快適サクサクです。


視点を変えてみると、5年にも及ぶ大改修で天守閣内部の見学はできませんから、姫路市としても観光客数・観光収入共にかなりのダメージを想定していたはずです。
流石に工事が始まってからは、平成22年度の姫路市の総入込客数は791万9千人で、前年度比175万5千人減少(18.1%減)で、姫路城の年間登閣者数が45万8千人となり、平成21年度と比べ110万4千人減(70.7%減)と大幅な減少でした。
やはり、明らかに大天守保存修理工事は観光ビジネスには大きな打撃であり、ネガティブ・マターとでもいうものであったでしょう。

しかし、そこで逆転の発想、「今だけしかないものを使って、観光客のニーズを掘り起こす!」ということです。
「ピンチをチャンスに変える」「ネガティブ発想からポジティブ発想への転換」です。
「今だけしか見られない姫路城」=「期間限定の見学施設」=「天空の白鷺」こそ逆転の発想であり、「ニーズの深掘り」なのです。
平成23年3月にオープンした「天空の白鷺」の集客効果は、抜群だったと言えます。
何故なら、平成23年度の姫路市の総入込客数は897万人で、前年度比105万1千人増加(13.3%増)となっています。

「B-1グランプリin姫路」の開催なども、来姫者(姫路に来た人をこう呼びます)増加に貢献しています。
そう、徹底的に地域の「経営資源シナジー」・地域の「ストロング・ポイントのシナジー」を創り出すのです。
来年の大河ドラマで「黒田官兵衛」が順番を繰り上げての決定と聞きましたが、地域という「面のマーケティング」を高度化させていくことができれば、マーケット豹変ということもあるでしょう。。
これは一例にすぎず、あらゆる街で企業で「事業戦略」として考えるべきテーマです。


さて、興味が湧いてきた人のために、もう少しだけ姫路城の歴史を紐解いてみたいと思います。
姫路城は昭和26年に国宝に指定され、平成5年には奈良の法隆寺と共に、日本初の世界文化遺産(世界遺産)に登録されました。
世界遺産にはエジプトのピラミッドやフランスのベルサイユ宮殿、中国の万里の長城などがあるのは、皆様ご存知の通りです。

世界遺産登録事由=「顕著な普遍的価値の評価基準」というのは、「人間の創造的才能を示す傑作であること」「歴史上の重要な段階を語る建築物、その集合体、科学物質の集合体あるいは景観を代表する顕著な見本であること」とされています。
些かアカデミックで難解な表現ですが、、。

以下はご参考のため、姫路城の歴史(姫路市HPより)です。

1333年 (元弘3年) 赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築く。
1346年 (正平元年) 赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。
1441年 (嘉吉元年) 嘉吉の乱。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。山名持豊、姫路城を治める。
1467年 (応仁元年) 応仁の乱。赤松政則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる。
1580年 (天正8年) 羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田孝高、城を秀吉に献上。秀吉、3層の天守閣を築く。翌年完成。
1585年 (天正13年) 木下家定、姫路城主となり16年間治める。
1600年 (慶長5年) 関が原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。
1601年 (慶長6年) 池田輝政、城の大改築を始める。9年後完成。
1617年 (元和3年) 池田光政、鳥取城へ移る。本多忠政、姫路城主に。三の丸、西の丸、そのほかを増築。
1639年 (寛永16年) 松平忠明、姫路城主となる。
1649年 (慶安2年) 榊原忠次、姫路城主に。その後、松平、本多、榊原各氏が城主に。
1749年 (寛延2年) 酒井忠恭、前橋から姫路へ。明治維新まで酒井氏が城を治める。
1869年 (明治2年) 酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に。
1931年 (昭和6年) 姫路城天守閣、国宝に指定される。
1951年 (昭和26年) 新国宝に指定される。
1956年 (昭和31年) 天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。
1964年 (昭和39年) 天守閣群の全工事完了。
1993年 (平成5年) ユネスコの世界文化遺産に登録される。


姫路城は美しいだけでなく、本来の城の機能性に優れたものでした。
つまり要塞としての縄張(設計、構成、仕組み)は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもので、これは江戸城と姫路城にしか類例を見ないと言われています。
文字通り、「難攻不落の要塞」であったことは、城内を見ていると色々なところで感じられます。

前述の黒田官兵衛(「孝高」、出家後は「如水」の号)に献上され、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が居城し、その後大出世を遂げたことから「出世城」と呼ばれます。
また、幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦では大天守最上階に落ちた焼夷弾が幸運にも不発弾となって、奇跡的に焼失を免れたことなどから「不戦の城」とも呼ばれます。


上記の表には廃藩置県により国有化と書かれていますが、実はもう少し物語があります。
明治に入り各地の城は、もはや「無用の長物」として、次々に廃棄されて売りに出されました。
言うまでもなく、維持・管理・保存に巨額の経費が掛かるためです。
姫路城も例外ではなく、競売されています。

その結果、市内の金物商の神戸清一郎という人が、わずか23円50銭で落札したそうです。
今の貨幣価値の23円50銭じゃないですから、「わずか」というのも何でしょうが、、、現在の貨幣価値に換算しても約十万円ですから、やはり「わずか」。

金物商ですから、城の古鉄や瓦を売るのが目的であったといいますが、買い取ったものの一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重過ぎて、解体にも莫大な費用が掛かるため、権利を放棄したとのことです。

あまり同列に並べたくはないのですが、お役所の天下り団体が各地に何百億円も投じて建てた施設を、何万円という安値で売り飛ばそうとしても固定資産税や改修費用が莫大になるので売れなかったという話と似ています。
お城の文化的価値とは比較にならない低レベルなことですが、その「A級戦犯」は退職金が毀損することもなく、ぬくぬくとした余生を過ごしておられるのでしょう。(あー、腹立たしい!)


そうそう、今日はもうこの辺で、、これからまたすぐに出張に出掛けて、3日間の旅。
帰ってからは、精力的に(遊びですが)すぐに春山登山に行く予定ですから、体力を温存しなければ、、。
次回は、爽快な「山頂からの大パノラマ」のお話にでもしましょうか。

2013.4.23.  ビジネススキル研究所  鶴田 慎一  拝

姫路城大天守「天空の白鷺(しらさぎ)」
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天守最上部(いい仕事してますねー)
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ところどころに古墳から掘り出された石棺も使われています
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