新着お役立ち情報に『上杉鷹山』をリリースして、夜遅くに愛知淑徳大学教授の真田幸光先生からメールをいただきました。

 驚くことに「私の祖母は上杉本家の長女」、「祖母の縁で上杉財団の理事も致しております」とのお返事。

 私は本日で満54歳になりましたが、調べてみると真田先生も1957年生まれで同い年、しかも「そういえば、お名前が似ているなー」と思っていたら、やはりあの真田幸村の末裔とのことでした。

 私からの「是非、近日お目に掛かってお話ししたい」との申し出にも、ご快諾いただきましてワクワクしますねー。


 人上練磨 --- 人生は体験や書によって学ぶことは多いのですが、何より「出逢った人によって磨かれる」ということが、大きな要素であると思います。

 ですから、私の座右の銘は、
「恭しき出逢いが人生を創る」 --- 「礼節をわきまえて、出逢いを大切していけば、素晴らしい人生が創られていく」という意味を込めたものです。

 また実は、「恭」と「創」は息子たちに付けた名前の一文字でもあります。


 人生って、「自分の価値観レベル」や「心の状態」によって、「いい出逢い」や「悪い出逢い」がもたらされるものだと思います。

 つまり、運やツキにも何某かのメカニズムが存在するということでしょう。


 ところで、『上杉鷹山』を書く切っ掛けのインスピレーションをいただいた、日本メディカルテクノロジーの長友真聡社長からもまたメールを頂戴しました。

『(前略)私の両親の故郷について、お詳しいのでびっくりしました。
私の両親は、高鍋町の北隣の川南町が父親の出身で、その北隣の都農町(つのうちょう)が母親の出身地です。(中略)
都農町は最近では口蹄疫の発生場所で有名になってしまいましたが、非常にのどかなところで、高鍋から日向までの海はサーフィンをする人にとっては、憧れの土地であり、高鍋は焼酎が好きな方はご存知かと思いますが『百年の孤独』で有名な黒木本店があり、海岸は海亀が産卵に来ますし、小さな岩牡蠣が取れるところでもあります。
また父親曰く、宮崎は大友宗麟と薩摩が戦ったところで、定かではありませんが、それが由来で長友の姓があるのではなどと言っております。(後略)』

 拝読して、またもやインスピレーション!

 「大友宗麟と薩摩が戦ったところ」 --- そうです、以前書いた「長宗我部」では端折ったのですが、あの有名な「戸次川(へつぎがわ)の合戦」ですね。

 せっかく火がついたのですから、少し書きたいと思います(当然、長宗我部友親氏著「長宗我部」参照)。


 豊臣秀吉は四国を平定した後、薩摩の島津義久を叩きたかったのですが、薩摩は九州統一を目指して大友宗麟の鶴賀城を攻め、落城寸前まで追い詰めていました。

 大友方は秀吉に援軍を頼み、秀吉とすればこのチャンスに一気に島津を倒したいと考えた訳です。

 讃岐の仙石氏(もしや民主のあの人の先祖?!)と十河氏、そして長宗我部元親に出陣命令が下ったのです。

 「秀吉本隊の到着を待って、総攻撃」という命令だったらしいのですが、「命令に従って、秀吉の着陣を待とう」言う元親に、仙石は川を渡って強行突破すると言い張るのです。

 そこまで言い張って、強行突破することになったのですが、仙石は二番手に回り、逃げる時は一番で、何とも怪しいですね。

 一般的には「仙石が功を焦って」ということのようですが、長宗我部友親氏は「無理攻めをして、ついでに長宗我部も滅べば一石二鳥」だったのではないかという見解も。

 確かに読みが深いですね。


 この戦いで長宗我部元親は継嗣である嫡男信親を失って、落胆のあまり覇気を失ったようです。

 信親は身長185cm・色白・柔和・聡明と書かれていて、しかも長宗我部友親氏の家の土蔵に信親の姿と思われる掛け軸の絵があって、白馬にまたがり鞍にいくつもの生首をぶら下げ、担いだ槍の先にも生首。

 本の中にこの絵があるのですが、森鴎外が詩にも書いたものと符合する豪傑だったようです。

 大長刀で8人、刀で6人斬ったと書き残されています。

 これは確かに自慢の跡継ぎ息子という感じでしょうから、元親の落胆は筆舌に尽くし難いもの
だったでしょう。


 跡目を巡ってはお家騒動の挙句に、何故か末子の盛親に後継が決まっています。

 二十二代当主となった盛親は、関が原の戦いで徳川家康に味方すると決めたのに、何故か石田三成方に付いてしまい敗軍となりました。

 その後盛親は大坂の陣に加わり、ついには市中引き回しの上で打ち首という悲惨な最期となりました。

 長宗我部は領地も姓も剥奪されて、明治維新まで土佐の下士とされて、永き不遇の歴史となってしまったのです。

 しかし、その差別の果てに土佐の下士たちが、明治維新の原動力となっていったのですから、歴史というのは何か長い必然の糸で繋がっている気がします。

 徳川方に付くと決めて密書を送ったものの、大阪で使者から「密書を渡せずに帰ってきた」ことを聞き、「後は運に任せよう」と言って石田に付いたといいます。


 運は「任せる」ものではなく、最善を尽くし続けて「引き寄せるもの」であると、つくづく感じるものです。

 企業においても、上司が「イチかバチか」で「蛮勇・匹夫の勇」を振るえば、部下たちは犬死させられて、企業は淘汰の道を進んでしまいます。

 あのオリンパスの事件も、正に歴代幹部の「将の器」から起こってしまったものでしょう。


 多くのステークホルダー(利害関係者)に迷惑をまき散らして、大切な社員たちを不幸のどん底に落とそうとしています。

 皆様の会社でも、経営トップや幹部の「将の器」づくりには、本気で取り組んでいただきたいものです。

 幹部・管理職の「将の器」づくりのお手伝いをしている私も、その強烈な使命を身につまされて感じています。

 さて、明日からまた三日間の合宿研修で、その後すぐにまた出張です。

 気合を入れて、最善を尽くし続ける「お役立ちの戦い」に挑み続けたいと、意を強くしています。



2011.11.10  五十四歳スタートの日に記す。  ビジネススキル研究所  鶴田 慎一  拝

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