8月15日の修正版で『Under Construction』にしていた『もう一つのプロジェクトX---Sさんの手記』ですが、本文を復活させました。
テレビで放送されなかった内容を、改めてSさんから投稿していただき掲載させていただきました。
併せて8月10日の新着情報「強烈な使命感」をお読みいただければ幸いです。
「いい仕事」には必ず「感動的なドラマ」が存在します。
脚本もなく演出もなく、一切の作為のない大自然の美しさにも似た感動があるように思います。
是非、じっくりとお読みください。
↓ ↓ ↓
阪神・淡路震災復興工事『もう一つのプロジェクトX』
--- Sさんの手記 ~ あの時の心意気を受け継いでほしい ~
≪≪≪
JR六甲道駅で下車し、改札を抜けて右手海側から外に出ると、ビルへの渡り通路の高架軒下にステンレスの小さなモニュメントが建っている。
円柱形のモニュメントには、震災発生からJR神戸線の全線復旧までの歩みが刻まれ、鷹取工場の地震計がとらえた地震変位の軌跡と柱頭には神戸の街並みが描かれ、柱を縦に割る地震の亀裂の中には黄金色のレールが2本、亀裂の両側を結んで設置されている。
傍らの駅舎外壁にはステンレスの小さなプレートが取り付けられ、「復興への誓い」が刻まれている。
開通から一周年を記念して平成8年に建てられたものである。
現在、六甲道駅は多くの乗降客が利用し、高架下の店舗などの賑わいは震災以前となんら変わることなくその役割を果たしている。
今、あの時、復旧工事で時間との死闘を繰り広げた戦場現場の面影はない。
復旧工事のJR六甲道駅工事所は関西支社土木部を主力として編成されたが、全国の奥村マンが支援に入っていた。
私は、ジャッキアップの復旧方針が確定した2月3日に、JR本社の被害調査支援班から現場工事所に赴任した。
工事計画の工務を担当する私には、筑波の技術研究所から志願して赴任したA.S.君が助手として就いてくれた。
復旧工事はまさに不眠不休で続けられ、現場担当者は二交代制のシフトだったが、計画工務はそうも行かず、眠れるのは2日に一度の状態だった。
彼とは一面識もなかったが、話すうちに学校の同窓だと知った。
5歳も離れているし、私は途中転校したから同じ空気を吸ったことはなかったけれど、同窓の先輩後輩として厳しい仕事を良く助けてくれた。
あの冬はよく雪が舞い、寒かった。
ある日、彼が風邪で発熱したので市販薬を飲ませて就寝させたが、深夜に「ぼくもうだめ、病院に連れて行ってください」と言い出した。
被災地の真っ直中で深夜に病院の当てもなく「クスリ飲んで寝たら気合で治る。俺もそうした」と取り合わなかったのだが、本当にだめだというので119番に電話した。
電話のむこうで救急隊員がすまなさそうに「今、手いっぱいで救急出動できない」と言うから、救急病院を紹介してもらい現場の2tダンプに乗せて連れて行くことにした。
深夜の被災地を走り、六甲病院に行ったら救急隊からの連絡で医者が玄関で待っていてくれた。
処置の後、現場へ連れて帰ろうとしたら、医者が「現場に寝かせるのは酷だから入院させろ」と言う。
誰も付き添ってやれないと言うと、彼が筑波から六甲道駅復旧工事の応援で来ていると知った看護婦さんたちが「六甲道はいつも私たちが利用する駅です。彼のことは私たちに任せて工事を頑張ってください」と言ってくれた。
彼は健康保険証を持たずに神戸に来ていたから、ベッドで寝ている彼に取りあえず2万円を握らせて病院に放置するようにして帰ることになった。
開通の目途が付き工務支援の東京組が帰京する前日、彼らと作業服のまま大阪ミナミに繰り出し、法善事横丁で安いフグを食べ、道頓堀のネオンの前で記念写真を撮った。
私はその後、神戸東灘下水処理場の復興工事に就き、2年後に被災調査の結果を発表するため東京に行った時、A.S.君が勤務していた大江戸線月島工区を見学させてもらうことになって再会した。
その夜は、あの時の東京組のメンバーが集まって門前仲町で大いに旧交を暖め、富岡八幡宮の相撲碑の前で記念写真を撮った。
あれから数回、仕事の用で電話で話したぐらいだったが、私が新神戸トンネルの仕事で神戸にいる平成13年の夏に「A.S.君が亡くなった」との連絡をもらった。
高血圧の持病があることは六甲道の後に知り、東京で会った時はあまり酒を勧めなかったのだが…。
いつでも会えると思って特に連絡を取り合うこともなかった人が、急にいなくなる寂寥感はなんとも表現できない。
彼のことは葬儀に行って送りたかったが、神戸で監理技術者の仕事をしていたから東京には行けなかった。
夜、帰宅時に六甲道で途中下車し、「復興への誓い」の碑の前に立ったら、あの時の、深夜の街を走ったことが鮮明に思い出された。
震災復興に立ち向かった奥村マンの戦士たちは六甲道だけではない。
新幹線にも私鉄にも、高速道路にも、下水道にも、あらゆる社会インフラの復興に立ち向かい、また、後方支援に走り回った人たちが大勢いる。
さらに、震災復興への転出者で手薄になった既存現場を少ない人員で守り切った人たちもいる。
今、震災から10年を経過するが、若い人たちは是非、あなたの周囲にいる彼らから心意気を受け継いでほしい。
そして、あなたの仕事が社会に対して何を貢献しているか常に自問自答してほしい。
21世紀に生き残る企業は、その活動に社会貢献の意義なしには存立できないと思うから。
付け加えれば、今回、はからずもJR六甲道の仕事が脚光を浴びることになった。
工事が終わった時、私はこのような日が来ることを予想し、専門誌等への発表に関連させて必要な工事資料や映像記録をすべて保存していた。
施主や当社の秘密に属する事項があるから資料は慎重に扱わなければならないが、社会貢献の意義を自問自答するだけでなく、アピールする方策も備えておくことが大事と思う。
≫≫≫
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「本気で仕事をする」って、本当に素敵ですね。
この手記を書かれたSさんは、いまも西日本支社でご活躍だそうです。
素晴らしい手記の投稿に感謝いたします。
(以下、8/15)
先週、東北では慰霊の花火が上がり、多くの想いをもって夜空に弾ける鎮魂の花火を見上げる被災地の方々が報道されていました。
そして、6日の広島、9日の長崎、今日は終戦記念日です。戦争も災害もそうですが、多くの無念の命が散っていきました。
50年は掛かると言われた日本の戦後復興は、世界情勢上の追い風はあったにせよ10年という速さで成し遂げられました。
世界の経済史上の二度と起こらない奇跡 --- それが日本の戦後復興でした。
是非とも皆で心を合わせ、力を合わせ、もう一度世界から「新しい奇跡 --- 大震災・デフレ経済・人口減を乗り越えた日本」と言われるように、改めてご先祖・先人に誓う盂蘭盆会にしましょう。
そういえば先日私の事務所で、「HPでの情報発信」と「NAVIGATORとアクセス解析によるデータ解析とリアルタイム解析」を、親しい会社の幹部の人たちに生の実演でお見せしました。
やはりライブの方が解りやすいもので、「なるほど、こんなに使えるとは知らなかった」と感嘆していました。(ご希望の方はお申し出ください。お見せいたします。)
アナログ的な理解をしてからデジタル・ツールを使いこなせば、ツールをウェポン(武器)として使いこなせるということですね。
以前(5/29)にも『無料SEM(Search Engine Marketing)サービスのお知らせ』というタイトルで書き込みましたので、そちらもご参照いただき、ご希望の方にはNAVIGATORの使い方などもお教えします。
2011.08.25 ビジネススキル研究所 鶴田 慎一 拝
経営戦略・マーケティング戦略・営業研修・営業セミナー・ビジネススキル研修など、お問い合わせ・ご依頼をお待ちしております。
テレビで放送されなかった内容を、改めてSさんから投稿していただき掲載させていただきました。
併せて8月10日の新着情報「強烈な使命感」をお読みいただければ幸いです。
「いい仕事」には必ず「感動的なドラマ」が存在します。
脚本もなく演出もなく、一切の作為のない大自然の美しさにも似た感動があるように思います。
是非、じっくりとお読みください。
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阪神・淡路震災復興工事『もう一つのプロジェクトX』
--- Sさんの手記 ~ あの時の心意気を受け継いでほしい ~
≪≪≪
JR六甲道駅で下車し、改札を抜けて右手海側から外に出ると、ビルへの渡り通路の高架軒下にステンレスの小さなモニュメントが建っている。
円柱形のモニュメントには、震災発生からJR神戸線の全線復旧までの歩みが刻まれ、鷹取工場の地震計がとらえた地震変位の軌跡と柱頭には神戸の街並みが描かれ、柱を縦に割る地震の亀裂の中には黄金色のレールが2本、亀裂の両側を結んで設置されている。
傍らの駅舎外壁にはステンレスの小さなプレートが取り付けられ、「復興への誓い」が刻まれている。
開通から一周年を記念して平成8年に建てられたものである。
現在、六甲道駅は多くの乗降客が利用し、高架下の店舗などの賑わいは震災以前となんら変わることなくその役割を果たしている。
今、あの時、復旧工事で時間との死闘を繰り広げた戦場現場の面影はない。
復旧工事のJR六甲道駅工事所は関西支社土木部を主力として編成されたが、全国の奥村マンが支援に入っていた。
私は、ジャッキアップの復旧方針が確定した2月3日に、JR本社の被害調査支援班から現場工事所に赴任した。
工事計画の工務を担当する私には、筑波の技術研究所から志願して赴任したA.S.君が助手として就いてくれた。
復旧工事はまさに不眠不休で続けられ、現場担当者は二交代制のシフトだったが、計画工務はそうも行かず、眠れるのは2日に一度の状態だった。
彼とは一面識もなかったが、話すうちに学校の同窓だと知った。
5歳も離れているし、私は途中転校したから同じ空気を吸ったことはなかったけれど、同窓の先輩後輩として厳しい仕事を良く助けてくれた。
あの冬はよく雪が舞い、寒かった。
ある日、彼が風邪で発熱したので市販薬を飲ませて就寝させたが、深夜に「ぼくもうだめ、病院に連れて行ってください」と言い出した。
被災地の真っ直中で深夜に病院の当てもなく「クスリ飲んで寝たら気合で治る。俺もそうした」と取り合わなかったのだが、本当にだめだというので119番に電話した。
電話のむこうで救急隊員がすまなさそうに「今、手いっぱいで救急出動できない」と言うから、救急病院を紹介してもらい現場の2tダンプに乗せて連れて行くことにした。
深夜の被災地を走り、六甲病院に行ったら救急隊からの連絡で医者が玄関で待っていてくれた。
処置の後、現場へ連れて帰ろうとしたら、医者が「現場に寝かせるのは酷だから入院させろ」と言う。
誰も付き添ってやれないと言うと、彼が筑波から六甲道駅復旧工事の応援で来ていると知った看護婦さんたちが「六甲道はいつも私たちが利用する駅です。彼のことは私たちに任せて工事を頑張ってください」と言ってくれた。
彼は健康保険証を持たずに神戸に来ていたから、ベッドで寝ている彼に取りあえず2万円を握らせて病院に放置するようにして帰ることになった。
開通の目途が付き工務支援の東京組が帰京する前日、彼らと作業服のまま大阪ミナミに繰り出し、法善事横丁で安いフグを食べ、道頓堀のネオンの前で記念写真を撮った。
私はその後、神戸東灘下水処理場の復興工事に就き、2年後に被災調査の結果を発表するため東京に行った時、A.S.君が勤務していた大江戸線月島工区を見学させてもらうことになって再会した。
その夜は、あの時の東京組のメンバーが集まって門前仲町で大いに旧交を暖め、富岡八幡宮の相撲碑の前で記念写真を撮った。
あれから数回、仕事の用で電話で話したぐらいだったが、私が新神戸トンネルの仕事で神戸にいる平成13年の夏に「A.S.君が亡くなった」との連絡をもらった。
高血圧の持病があることは六甲道の後に知り、東京で会った時はあまり酒を勧めなかったのだが…。
いつでも会えると思って特に連絡を取り合うこともなかった人が、急にいなくなる寂寥感はなんとも表現できない。
彼のことは葬儀に行って送りたかったが、神戸で監理技術者の仕事をしていたから東京には行けなかった。
夜、帰宅時に六甲道で途中下車し、「復興への誓い」の碑の前に立ったら、あの時の、深夜の街を走ったことが鮮明に思い出された。
震災復興に立ち向かった奥村マンの戦士たちは六甲道だけではない。
新幹線にも私鉄にも、高速道路にも、下水道にも、あらゆる社会インフラの復興に立ち向かい、また、後方支援に走り回った人たちが大勢いる。
さらに、震災復興への転出者で手薄になった既存現場を少ない人員で守り切った人たちもいる。
今、震災から10年を経過するが、若い人たちは是非、あなたの周囲にいる彼らから心意気を受け継いでほしい。
そして、あなたの仕事が社会に対して何を貢献しているか常に自問自答してほしい。
21世紀に生き残る企業は、その活動に社会貢献の意義なしには存立できないと思うから。
付け加えれば、今回、はからずもJR六甲道の仕事が脚光を浴びることになった。
工事が終わった時、私はこのような日が来ることを予想し、専門誌等への発表に関連させて必要な工事資料や映像記録をすべて保存していた。
施主や当社の秘密に属する事項があるから資料は慎重に扱わなければならないが、社会貢献の意義を自問自答するだけでなく、アピールする方策も備えておくことが大事と思う。
≫≫≫
↓ ↓ ↓
「本気で仕事をする」って、本当に素敵ですね。
この手記を書かれたSさんは、いまも西日本支社でご活躍だそうです。
素晴らしい手記の投稿に感謝いたします。
(以下、8/15)
先週、東北では慰霊の花火が上がり、多くの想いをもって夜空に弾ける鎮魂の花火を見上げる被災地の方々が報道されていました。
そして、6日の広島、9日の長崎、今日は終戦記念日です。戦争も災害もそうですが、多くの無念の命が散っていきました。
50年は掛かると言われた日本の戦後復興は、世界情勢上の追い風はあったにせよ10年という速さで成し遂げられました。
世界の経済史上の二度と起こらない奇跡 --- それが日本の戦後復興でした。
是非とも皆で心を合わせ、力を合わせ、もう一度世界から「新しい奇跡 --- 大震災・デフレ経済・人口減を乗り越えた日本」と言われるように、改めてご先祖・先人に誓う盂蘭盆会にしましょう。
そういえば先日私の事務所で、「HPでの情報発信」と「NAVIGATORとアクセス解析によるデータ解析とリアルタイム解析」を、親しい会社の幹部の人たちに生の実演でお見せしました。
やはりライブの方が解りやすいもので、「なるほど、こんなに使えるとは知らなかった」と感嘆していました。(ご希望の方はお申し出ください。お見せいたします。)
アナログ的な理解をしてからデジタル・ツールを使いこなせば、ツールをウェポン(武器)として使いこなせるということですね。
以前(5/29)にも『無料SEM(Search Engine Marketing)サービスのお知らせ』というタイトルで書き込みましたので、そちらもご参照いただき、ご希望の方にはNAVIGATORの使い方などもお教えします。
2011.08.25 ビジネススキル研究所 鶴田 慎一 拝
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